イノウエさん 好奇心 blog

井上慶太郎の学術系スナップショット。月1予定。

サイクス=ピコ協定と総選挙

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(10/29UPDATED)

一週間ほど前、勤務させていただいている市内の図書館で予約していた、とある本が届きました。半年かけて招聘されたその本とは、『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』(池内恵、2016)です。

2014年の夏。中東で勃興したイスラム国(IS)の誕生背景がこの図書を眺めると良くわかるようです。IS樹立の際に掲げられた「サイクス=ピコを越える」という黒装束の教徒のメッセージは何だったのでしょうか。
現在の、不安定な世界の不思議を紐解くには、この『サイクス=ピコ協定』を始めとする大国の密約や帝国主義の凄みを知っておくことが助けになると思いますし、いま、日本が置かれている国際的な立場を知るためにも、この本は有意義でした。

寄り道ですけど、最近、北朝鮮に対して、『対話は通じない』と安倍総理が演説しており、その理由をいくつかの点から述べています。対話を続けようとしても、拉致問題は棚上げされたまま、相手には取り合う姿勢がない、などです。

この著書に描かれる歴史に顕著なことは、外交は緊密に絡み合う大国のパワーバランスを、利害関係を調整して、どう利用して活用するか、ということでした。それが驚くような方法を用いて展開されているのがわかります。平和を維持するための外交も、二国間だけの対話で功を奏すようなものではないことが想像されます。

特に朝鮮半島は、日本と同様、冷戦時代から対立の前線となる要衝なので、北朝鮮にまつわる一連の緊張感の高まる過程も、大国の思惑が絡んでいることが想像に難くありません。

イノウエの知るわずかな情報ですが、北朝鮮は過去、シリアと原発の開発技術で情報共有がされていました。現在もその背景が続くとすれば、ロシアも利害関係にあります。とすれば、日本の対話する方向は多岐に渡るはずです。

ところで、北朝鮮問題とは、まったく別に見えるサイバー空間でも、現在、米国とロシアの情報戦の苛烈さは増しており、10月に入って「アメリカがイスラム国殲滅の障害になる情報」をロシアが発表するほどです。
https://www.google.co.jp/amp/www.newsweek.com/russia-says-us-main-obstacle-final-annihilation-isis-678472%3Famp=1

焦点の当たらない部分でも常に大国同士のせめぎ合いがなされているので、『対話は通じない』場合は、米露または中国に、どのように働きかけて不毛だったかを論拠にする方が、適切だと思うわけです。

池内さんなら、どう考えるでしょうか。
話をもどすと、「サイクス=ピコ協定」とはいったい、なんだったのか?

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つづき、書きます。



この協定が、中東の混迷を招いた諸悪の根源と、報じられることがある、と著者は言います。

かつて中東に広大な領土を占有したオスマン・トルコの国土を、第一次大戦後、戦勝国でどのように分割するかを決めたものが、この『サイクス=ピコ協定』でした。
が、実際には二転三転するものでした。

1916年に合意を得たこの協定は、もともと、秘密裏に英仏露によって取り交わされましたが、1917年のロシア革命で、露が離脱し、新しく樹立したソ連政府から暴露されます。
そこで世間で言われるところの、勝手な国境の線引き。現在のトルコの大部分とシリア、そしてレバノンが、フランス領。
イラク、ヨルダン、アラビア半島の大部分がイギリス領。
コーカサスの南の一部やトルコ(アナトリア半島)の首都がロシア。
首都とはコンスタンティノープルで、黒海と地中海を結ぶボスポラス•ダーダネルス海峡をロシアの領土とするはずだった密約を、世間が知ることになりました。

ロシア帝国の崩壊後、フランスもイギリスも、サイクス=ピコ協定を結んだものの、それを実施する戦力や統治力を残しておらず、1920年には、諸地域に生活する人種や民族の、より自然な民族分布に近い国境が画策されるようになりました。その変更を条約化したのが、セーブル条約(1920)です。

池内氏は、もし、現在の中東の混迷を、サイクス=ピコ協定など大国の恣意的な国境の線引きにあるとすれば、セーブル条約が誕生したことによって、後世の問題は解決されたはずだと、示唆します。

セーブル条約の通りであれば現在、新聞紙面で取りざたされるクルド人の独立の問題となるクルディスタンも建国されるはずでした。

では、このセーブル条約を破綻に追いやったのは、どこか、といえばオスマン帝国瓦解後のトルコ民族でした。彼らはオスマントルコの中心地だった、コンスタンティノープルを始めとするアナトリア半島全域を、実力で取り返し、トルコ共和国として延命したからです。裏を返せばトルコよりも強い統治主体がなかったからとも言えます。

1923年、ほぼ現在の中東の国境と同様の区分けを用いたローザンヌ条約が採用されることになりました。

また、サイクス=ピコ協定に向けられた批判の中心には、イギリスの二枚舌外交の問題があると言われます。いわゆる、ナショナリズムを煽り敵国の統制力を撹乱させた取引で、同時に同じ土地を別人種に与える約束をしたと言われますが、よくよく状況を見てみると、アラブ人の国はヒジャーズ国、のちにその血族の統治によるヨルダンとイラク国の譲渡がなされ、ユダヤ人の国、つまりイスラエル建国も、アラビア半島と重ならない地域に区分けされたので、約束は結果的には、反故にされず取引が成立しました。
フサイン=マクマホン協定を元にイギリスの先導したアラブ人(ファイサル1世率いる)部隊は、一時イギリス領を越え、フランス領マダガスカルにまで侵略するも、ヒジャーズ国と引き換えに撤退している)

ちなみに、戦時中フランスはオスマン帝国内のキリスト教徒に対して、レバノンという国の建国を約束して、実行しました。

この著書に書かれた史実だけを元に考察すれば、大国の問題は、二枚舌外交というよりも、もともと建国される地域で生活を営んでいた建国の民族以外の民族を排除してしまったことにあると、言えそうです。
バルフォア宣言に基づくイスラエル建国にとってのパレスチナ難民、ローザンヌ条約以降のイラクやヨルダンのハーシム家スンニ派)に対するその他のスンニ派の排除によって、のちにビシャース王国は侵略され、現在のIS誕生の引き金となったからです。

帝政オスマントルコ時代の圧倒的な勢力の元では、玉石混合の民族分布で、バランスが保たれていたものの、個々の民族や血統の結束と自治権を生かした結果、悲願の建国と引き換えに、今度はそれまでその地で生活していた少数派の人々の恨みを買ってしまう。これが、第一次世界大戦後に中東で起きた問題の中心だった、と感想を持ちました。

こうして、巨大なイスラム帝国だったオスマントルコの衰退に合わせて生まれたサイクス=ピコ協定の強制力は脆弱で、ある時期、実現するかに思われたより自然な民族の繁茂に合わせた区画は、最終的にはトルコによって覆され、大国の二枚舌による杜撰な外交という批判は、当時は辛うじてではあっても、かつて解決されていた問題を、再び掘り起こした指摘だったことになる。
さらに現在のイスラム系過激派組織の多数を占めるスンニ派に対しては、そもそも建国の約束まで果たしていた、という事になる。

サイクス=ピコ協定そのものが諸悪の根源という指摘は、その全てが当てはまるわけではないと言えそうです。

そんな感想を持たせる史実の証左が、豊富に記されていて、勉強になりました。
建国に踏み切ることは多く禍根が残る。同一民族の文化の良さの価値と、見合いにした時に、いったい、何を守ろうとしたのか、改めてぶれない知恵が求められていることに痛感させられました



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【中東大混迷を解く】 サイクス=ピコ協定 百年の呪縛 (新潮選書)

【中東大混迷を解く】 サイクス=ピコ協定 百年の呪縛 (新潮選書)

カリアス書簡(つづき)

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『美と芸術の理論』ーカリアス書簡 シラー著から引用

1793年2月19日
さっそく昨日の話の解釈をすることにしましょう。(昨日の話)
第五の行為が美しいものである理由は(略)まったく我を忘れて、自分の義務を、やすやすとあたかも本能から出たかのように行ったからです。一言で言えば、自由な行為は、心情の自律と現象における自律とが、一致する時に美しい行為となるのです。美的評価においては、あらゆる存在は自己目的とみなされるからです。(略)

 上記は、シラーの解説の一部です。

心情の自律、と、現象の自律、について補足:
心情の自律とは、〇〇のため、〇〇の目的からではなく自発的に自分の行為に制約を課す心の特徴。
現象の自律とは、見る人に負担をかけたり考えさせたりしない、むしろ自由さを感じさせる行為の特徴。筆者補足

まとめると、
自発的な義務を担い、なおかつ、気軽さを伴う行為は、美学的評価を高くする。
ということで、さらに噛み砕くと

 その人らしい意義ある振る舞いを、さらっとできる人は、かっこいい、と、シラーは言っている様子です。

 なお、義務や自律というと、いかにもかた苦しい感じがしますし、シラーが自らその人の学徒と称するカント本人は、それを「結果的に誰にとっても益となる行為」いわゆる道徳律、と言います。
 さらにこの道徳も人によって、独りよがりになりかねません。なので、経験的に検証することの大事さも語られます。

 ところで、シラーの例え話(前のブログ)では、多くの人が同様の責任感を抱きやすい状況として「貧困に窮した人を、助ける」といったデフォルト義務をあつらえました。命を救う=人類の義務、という図式に前触れなく導入しており、この点に疑問を抱く方がいれば、そういうことだと思います。例えば、利益を得ることに義務感を感じる人、そもそも素通りすることに義務感を感じる人、などもいるかと思いますが、哲学的には、結局、上記でいわれるところの自律的=美的な評価は、おおむね、一定の行動性向に収斂していきます。 

そんなこんなで、美を定義づけようとする人たちは、もともと芸術や視聴覚表現の美しさを、論じるのと同じ美しさを行動性向に対しても当てはめていたので、面白いです。
『美と芸術と理論』は、書店ではあまり置いていない書籍なので、調布の中央図書館の地下書庫で遭遇できたことが嬉しいです。


美と芸術の理論―カリアス書簡 (岩波文庫 赤 410-2)

美と芸術の理論―カリアス書簡 (岩波文庫 赤 410-2)

美しさを定義した人たちの話

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リサーチサイトに新しい記事を更新しました。
www.machinokid.net

(9/6updated)
ところで本日はこちら美学の話を掲載することにしました。

ちなみに、『走れメロス』は太宰治の著作として有名ですが、実は、もともとは、この文章の作者・シラーによるものでした。
ベートヴェンの第9の歌詞を書いたことも広く知られるシラーですが、友情や美についていろいろ考えた人でした。
しかも、考えただけでなく、「美」を定義したのでした。
一般的に、誰にでも当てはまる共通の美しさはないと言われます。人によって解釈も違うからです。だとすれば、定義など、無理だと思うのが普通の感覚だと思いますが、どうでしょうか。

それが、シラーさんや、シラーの美の構想の基礎となるカントさんも、その著書『判断力批判』の中で、美しさを、美学という形で定義付けました。
具体的にどのような軸を持っていたのか。追ってみたいと思います。

こんな例え話を持ち出して来ます。

 厳しく寒い日に、一人の男が追い剝ぎにあって、丸裸にされて倒れている。
 そこへ、一人の旅人が通りかかったので、彼は旅人に事情を訴えて救助を乞うた。旅人は心を動かされて言う、
 「まことにお気の毒です。私の持っているものを喜んで差し上げましょう。しかし、その他の助力を要求しないでください。あなたの様子を見ることは私には耐えられないから。向こうから人々がやってきているから、この財布をあの人たちに与えて、助けてもらいなさい。」

 その負傷した人は言った
 「あなたの志は良い。しかし人としての義務が要求するなら、苦痛をも見ることを忍ばなければなりません。あなたの財布に手を入れることは、あなたの弱い感情を少し押さえつけることの半分にも価いしないでしょう」

 この行為はどういうものであったか。
 功利的でもなく、道徳的でもなく、寛大でもなく、また美的でもない。ただ単に感情的であるにすぎないところの感動から生じた親切というだけです。

 第二の旅人が現れた。負傷した男は再び助けを乞うた。
 この人は金には惜しいが、しかし人としての義務は尽くしたいのである。そこで彼は言った、「もしあなたのために暇をつぶすと、私は1グルデンの損をするだろう。もし損をするだけの金をあなたがくれるなら、あなたを肩に背負って、ここから1時間足らずの僧院に連れて行ってあげましょう。」
男は答えていう、「賢いやり方である。しかしあなたの親切は、あなたにとって名誉あるものではないと言わなければなりません。向こうに馬に乗ってくる人が見える。たった1グルデンであなたが売る救助をあの人は無償で与えてくれるでしょう。」

 この行為はどういうものであったか。
 親切でもなく、義務を果たすのでもなく、慈悲でもなく、美でもない。ただ単に功利的であるというだけです。

 第三の旅人が負傷した男のそばに立ち止まって、彼の災難の話を聞き取る。
 その男が話し終わった後に、なお彼は思案しつつ、自己と戦いつつそこに立っている。しばらくすると彼は言った、
 「病身な私の体にとって唯一の保護であるこの外套を手放すのは私には苦痛です。また私は疲れ切っているから、私の馬をあなたに手放すことも苦しい。しかし義務は、あなたを助けることを私に命令します。だからあなたは、この馬に乗って私の外套を着なさい。そこで私はあなたが助けられるところまであなたを連れて行ってあげましょう。」

 負傷した男は答えた、「あなたは感心な人です。あなたの誠意に対しては感謝します。しかしあなた自身も困っているのですから、私のために難儀をさせられません。向こうから丈夫そうな二人の人が来ます。その人たちに私を助けてもらいましょう。」

 この行為はどういうものであったか。
 それは、純粋に道徳的であった。なぜなら、その行為は感情の関心に反抗して、法則に対する畏敬の念から行われたからです。

 次に二人の男が傷ついた男に近づいてきた。そして彼の災難について問いかけた。彼が口を開くやいなや、二人は驚いて叫んだ。「かれだ!我々が探しているやつだ!」男は彼らをみて驚愕する。
 この男は彼ら二人を不幸に陥れた男であって、彼らの不倶戴天の仇敵であり、彼を殺して仇を報いるためにその後を追っていたものだった。
 男は言った「今や、あなたたちの憎しみと恨みとを果たしなさい。私があなたたちから期待することのできるものは死だけである、助けではない。」

 「否」と彼らの一人が答える「我々がどんな人間であるか、そしてあなたがどんな人間であるかを知るためにこの着物を受け取って着なさい。我々は二人であなたを抱えて、あなたが救われることのできるところまで連れて行こうと思う。」
 負傷した男はひどく感動した(略)

 これに対してもう一人の男が冷ややかに答えた。「待て、私があなたを助けるのはあなたを許すからではない。あなたが惨めな状態にいるからだ」(略)

「私はどうなっても良い。高慢な敵のおかげで助けられるよりは、惨めな死の方を選ぶ。」彼は起き上がって立ち去ろうとした。


 その時、重い荷を背負った第五の旅人が近づいてきた。
 この旅人は彼を見るやいなや、自分の荷物を下に降ろして自ら進んでいう、「あなたは負傷している。そしてあなたはもう全く無力である。次の村はまだかなり遠い。あなたがそこへ行き着くまでに倒れてしまうだろう。私に背負われなさい。急いで連れて行ってあげよう。」

 「しかし勝手に人の通る往来に、あなたの荷物を捨てておいて良いのですか。」

 旅人は言う。「それはどうなるか私は知らない。そんなことはどうでもよろしい。私の知っていることは、あなたが助けを要すること、私が助けを与える義務があるということだけです。」

 この旅人の行為がなぜ美であるかを考えておいてください。





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友人・ケルナーに宛てた手紙より
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『美と芸術の理論』-カリアス書簡 シラー(1973)
訳 草薙正夫(1936、岩波書店

Shanghai Story

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 上海へ行かせて頂きました。
 現地では、最近、親しくさせてもらっている重慶出身の知人に会ったのですが、会話の内容も多岐にわたり良い時間でした。他愛のない話がほとんどでしたが、小籠包の話から、いつのまにか、中国政府の情報規制のことなどに話が至ると、ますます充実した話になりました。
 グーグルもLineもインスタも、アクセス制限を解除するVPNに接続しなければ使用できないことや、さまざま起こる惨事が、中央政府によって隠蔽されてきたことも、すでに市民の間にも漏れ伝わるところでした。この点に話が広がると、いつの間にか彼女の方から、このままではいけない、という危機感が発せられるようでした。
 というのも、聞けば、彼女の家系は代々、中国国税局に勤務しており、身内の稼業に対する不満が、まだ25歳の彼女の言葉の節々に反映されていたからです。いつの間にか、聞き役に徹する自分がいました。
 汚染の実態を公表しない〇〇という地域での官庁の応対や子供の病の実情など、悲惨なエピソードを伝え聞くあいだ、ぼくは、彼女の不満を和らげていました。
 わかるよ、日本もかつて公害を撒き散らすひどい国だった。と、若干、背伸びして共産党政府をかばう自分がいました。そんな社会の現状に興味のある彼女でさえ、天安門の話をほぼ知らなかったのは驚きでした。

 しばらく傾聴に徹していた僕の口から、「そういうけれど中国は悪いところばかりじゃない。むしろ偉大な国だ。」といった言葉が飛び出すまでには、それほど時間はかかりませんでした。そんなことを言える立場でもないし、経験もありません。
 昔ファインボーイズという、思春期の男子が読む書物に書かれていた呪文がふと思い出されました。そこには、女の子が彼氏の不満を漏らした時こそ、チャンス、責められる彼氏を擁護すれば、あなたの好感度はぐんと上がります!というような卑猥なことが書かれておりました。当時はその書物聖典のように扱いましたが、それとは全く関係ありません。また、彼女の辛辣な言葉に嫌気がさしたわけでもありません。
 ただしみじみと、中国は強大な国だと、思えたからです。
 僕が今回、訪れたのは上海と杭州でしたが、そこで見たことは印象深く、やがて自分を勇気づけるほどのものでした。ひとつは、夜景を生み出す中国の都市政策。もう一つは、寺院の景観です。

 当然ながら、一般的に市民の知る自由が制限されることは良いわけはなく、それどころか、過剰な敵意を生み出す歴史教育も、市民の生存権まで厭わない施政の危うさも言語道断で、どれも人権侵害に起因する根深い問題です。ですが、個人的には、国を経営する国家体制の現実味には感慨深いものがありました。実際に観光客で溢れるThe band 区域への資本の力の入れようにも夜景の人工的な電飾効果も驚かされました。
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 一方、仏教寺院の荘厳さにも、政府の強い方針を感じるものでした。荘厳というよりも、日本人から見たら、装飾過剰と思えるほど雅な仏像や、巨大な寺院建築にも人々は惹きつけられて、結局は観光客の溢れていることに、自分もその中の一人として感慨深い体験となりました。
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 そこに精神性の洗練されたものを感じたというよりも、まったく世俗的な視線に寄り添った娯楽の楽しみが、商業とあいまって、人々を上手に包み込んでいると思えたからです。上海の歓楽街の巨大な建造物の壁には多くの箇所に巨大な液晶が設置されていましたが、それも同様で、裏路地のうらぶれた風景とのギャップを感じさせるもので、街の大きな魅力となっていたように思います。
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 つまるところ、それらの国内外の人々の人心掌握にまつわる作為的な景観や方針に、中国共産党の国家経営の意気込みや凄みを感じたのだと思います。

 ところで、いつのまにか彼女は歩き出していました。スイカが食べたいとのことです。ふとしたついでに虹口区の八百屋で写した、この写真を見せました。
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 どうやら、この写真は気に入られたようで、帰国したら送って欲しいとのことでした。

 僕は偉そうにも無知ながら、日本にいる間、自分の国が、国の台所事情によって市民を犠牲にする国のように思えていました。きっと、その不満を拡大したような姿を、中国の街並みに見つけた気がしてなんとなく腑に落ちたのでした。
 政府は、政府で、台所事情を知っている手前、半ば強引な方針を打ち出すために、国連人権委員会だの、自由権規約との整合性がどうのこうのと、国際標準と、折り合いが難しくなっている様子も新聞紙面から見ても明らかです。この状況を、まったく擁護するわけでも、好きなわけではないですけど、中国を見て、まだまだ日本は平和で、そして豊かで、そして何より、知恵不足なんだと思わされました。逆説的なことは半端じゃないのですが、反面教師中国を見て、未来を感じる旅になりました。
 とはいえ、上海の夜景がPM2.5の陰に浮かび上がっている姿は、なぜか悲惨な状況ではなくて、這い上がろうとする巨大な国の実像に見えて、奮いたつ、感じが自分の中にありました。
 帰国して間もなく、三日坊主でも良いから僕は国際情勢について、大学時代を思い出して文献を手探りでひっくり返しています。想像力を枯渇させない景色が頭に浮かび上がる、今回の上海リサーチは、実に良い生きた文献となりました。

続・社会学入門

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 先月は、岩波新書赤版『社会学入門』の、第1章・第2章に触れさせていただきました。
 今回は、しばらく個人的には難解に感じていた序章と巻末の部分に踏み込みます。

 社会学ならではの、ドイツ語の耳慣れない用語も多々出てくるのですが、関連する問題意識をすでにお持ちの方であれば、理解は難しくありませんし、問題意識が無くても、予備知識を書き出したので、参考にして頂ければ、本書を読んでも難しくはないかと思います。
 見田氏のいうところの、社会構造の4つの形態についても共有できるものがあるかと思い、ブログに記しておきました。
 
 ちなみに、本書での論旨は1728年に生まれたカントの純粋理性批判で示された先験的な、直観のセンスの論旨にも通じており、社会学の分野でありながら哲学史の文脈上にも据えられる内容です。
 というわけで、このブログでは、18世紀のドイツ哲学を現代哲学へ通じさせるには、ちょうど良く、中でも、好きな人にはたまらない論旨を扱えそうです。この祝いブログに読んで頂いた方が立ち会えることを嬉しく思います。
 どうぞ最後までお付き合いください。祝🌟

 では、はじめに質問ですが、ゲマインシャフト、とは何だか解りますか?

 初めて耳にした人の為に、独社会学者、フェルデナンド・テンニース(1855~1936)の提唱した強力な社会形態の分類用語をお知らせします。それが、ゲマインシャフトと、その対概念となるゲゼルシャフトです。これを前もって確認します。

ゲマインシャフト:地縁・血縁・友情で結びつく社会(非打算的…テンニースのいう本質意思による社会)
ゲゼルシャフト :共同体の利害調整のため、人々が構築した社会(実利的…テンニースのいう選択意思による社会)

 を意味する言葉です。さらっと頭に入れてください。

 ところで、この分類は社会学の歴史の中で、かなりの説得力を持ちました。例えば、現代風な観点にも応用できるからです。
 ゲゼルシャフトの社会では、利害調整のために人々は社会を設計をします。なので、この社会での、あらゆる文化は、明確に価値の判断できる対象を基準にしやすいです。例えば、生活に困窮する人へ、政府は生活保障として、ポエムを読み聞かせる、などのことは普通はしませんが、そういう訳です。

ここで問題
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 もし、あなたが、まだあまり親しくはない異性に確実に喜んでもらえるプレゼントを選ぶとしたら、下記のどちらを選びますか?理由も答えてください。

 1.月夜の晩に浜辺で拾って捨てられず持ち帰った心にしみるボタン
 2.ディズニーランドのペアチケット

解答
普通は2番が選ばれます。
理由は、既に一定の価値を認めてもらえる物の方が、喜んでもらいやすいからです。
(2番は選択意思から選ばれるのでゲゼルシャフト社会の特徴です)
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 一方、例えば月夜のボタンやポエムなど、人によって価値の分かれるものを誰かに提供する場合は、動機としては実利的というよりも、見返りを意図しない自発に近い動機になるのは自明です。
 この自発性は、より友達的で、非合理的で、結局は無作為なものなので、縁や友情に関わるゲマインシャフトの社会の振る舞いになります。


 この二分類を表明した当時のテンニースの論旨は影響力を持ちましたが、実は、げんだいでは批判の対象にもなりました。
 岩波文庫から翻訳本を著した杉之原さんでさえ、「社会的事象を社会構造の変化及びその規定因素との関連において把握するということがほとんど顧慮されていない」と言います。(吉田浩、2003『フェルデナンド・テンニエス』、東信堂

 なぜだと思いますか?

(6/20updated)
 というのも、テンニースはゲマインシャフトゲゼルシャフトの二つの領域を、さらに、生理的なものと、経験的なものと、思考的なものの、3段階の区分けを設けて、詳細な分類を試みました。添付画像にあるように、生理的な段階では、男性はゲゼルシャフト的・女性はゲマインシャフト的で、思考的な段階では、それぞれ、庶民的・教養的だと示すような部分などがあり、批判されやすい論旨を含んでいたのも、批判の一つだと思われます。
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 というわけで、↑ここまでが、予備知識で、↓ここからが見田氏の見解です。

 見田氏は、テンニースの示した非打算的社会=ゲマインシャフトと、実利的社会=ゲゼルシャフトの区分けを採用せず、むしろ、ひな形として扱い、前者を共同態、後者を社会態として扱いました。
 そして、もうひとつ意思の有無(濃淡)の軸を設けて、4つの社会構造を提示して、現代の様々な社会状態を網羅する分類を示しました。


 見田氏の言葉を用いれば

1. 意思的な共同態   ... 交響体 ... 意識や意思によって人格的に繋がる集団
2. 意思以前的な共同態 ... 共同体 ... 地縁、血縁、友情によって人格的に繋がる集団(家族、同僚、農村共同体)
3. 意思的な社会態   ... 連合体 ... 相互利益とそれらを維持する秩序を構築して集う集団(会社、団体)
4. 意思以前的な社会態 ... 集列体 ... 相互利益に生きる人々の相補的に繋がる社会(損得勘定を基にした集い)

の分類です。さて、この4つの分類、なにがそんなに面白いのでしょうか。

  一つは、先述した、哲学の文脈上にある、物事に血を通わせる直観などの価値とその価値を共有しようとする集団が、意思のある共同態(非打算的)、見田氏の言うところの、交響体の集団に反映されている点です。

 なんだか、面白そうですね。

1.2の共同態=ゲマインシャフト
3.4の社会態=ゲゼルシャフト

 明日夜、また続きを描くことにして、ひとまず、今日はここまでにしたいと思います。
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6/3追記

 交響体は、解りづらいかもしれず、捕捉すると良いと思ったので書きます。

 交響体というのは、見田氏のいう「意思」的な共同態です。共同態とは、ゲマインシャフトを基にする集団で意味するところは、地縁・血縁など、「本質意志」で繋がる集団でした。
 なので、交響体とは、構成員の「本質意志」の「意思」によって関係が生まれる集団です。この集団は自発的に行動する、という特徴があります。

 ところで、これは、すごく不思議な特徴があります。この点に触れて、捕捉を終わります。

 というのは、多くの場合、趣味の集いやある意識の繋がりから交響体が形成されても、体制の維持が難しいという特徴があるからです。

 なぜなら、仮に交響体が形成されても、成員同士は、物理的な身近さによって生じる縁etc.の集団=共同体に変容しやすいですし、組織を運営するために権力構造を有する集団=連合体(相互利益に基づく関係性)に、変容しやすいからです。

 交響体の成員は、うまく形容し難い、研究者や芸術家や、よほどの脳天気な面白い人々など、利益ではない繋がりを発見する自発的で、ある意味不思議な集団ということになりそうです。
 ちなみに、テンニースは、Gekehrten=Republik(学者共和国)という領域を、構想しました。

 という訳で、雑駁ながら、上記が交響体の捕捉でした。

 一方、集列体や、連合体の違いなども、解りづらいかもしれないので、それもまた説明できると嬉しいです。見田氏は、共同体も交響体も、集列体や連合体に含まれるとバランスが良い、との旨を記しており、現にそのようにシステムを社会は作り出しているそうです。

 ところで、徐々に、まぶたが重くなってきました。本日はバスケの試合で久々に良い汗をかいたため、その分、ゆっくり休みたいと思います。お目汚し失礼致しました。

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念〈上〉 (岩波文庫)

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念〈上〉 (岩波文庫)

  

Zauber(ツァウベル)

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(5.16 updated)
見田宗介氏の『社会学入門』(岩波新書・赤版)から、ブログします。

去年も紹介したこの著書ですが、今日、取り上げるのは序章から6章あるうちの、第1、2章です。
ページ数にして40ページ強。この中に好奇心膨らむ物語が、詰め込まれてます。

雑駁ながら語られてるテーマ、内容、要約、を下に列記しました。

小見出しは本文のものではないです
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社会学入門』
1章
旅での出会い
・山本満喜子さん(ナチスの海軍将校と駆け落ちした女性。相手の将校はドイツの潜水艦を盗んで、アルゼンチンへ亡命、満喜子さんは陸から合流、その後、ダンスクラブの事務員として働き、昼間は練習を続け、やがて世界的タンゴダンサーとなり、カストロゲバラの目に止まる。満喜子・カストロの信頼が唯一の日本=キューバの国交窓口だった時期もあったほど)という女性にスーパーで出会った話
・ペルーのバス停で話しかけてくる人たち、時間を費やすのでなく、時間を生きる人たちの話
など、語られてます。

世界初の公共時計
14世紀前半、ミラノなどイタリアの諸都市で設置。時間の枠組みの中に生活がはめられるようになる。時計の針は1本だった。その後、現代になるにつれ分針、秒針が加わり当時に比べ尺度が3600分の1に細分化された話

メキシコの死者の日
11月1日、2日に行われるメキシコの原住民(インディオ)の祭りは墓場で日夜宴会を行う。準備にも幾日もの時間を費やし、死者のための食事を用意するという話

アメリカの100ドル紙幣
”Time is money"の精神のベンジャミン・フランクリンは、近代化の象徴だが、一方、非経済的な生活習慣の絶滅が望ましい、との旨を手紙に残す話

など語られてます。

コモリン岬
2004年12月スマトラ沖大地震で、コモリン岬を津波が襲ったとき、インド空軍でも救助できなかった旅行者を、地元の漁師が救った話。

花への畏怖
手向くるやむしりたがりし赤い花
小林一茶が親しくしていた幼い少女に、摘みたがっていた花を添えた、という内容。

色の聖域
ローマ時代にも、聖徳太子の時代にも、最高位に紫が置かれた歴史的背景。
日本人は色彩に対しても、隠語を用いた。白いカミシモは、イロギ、イロカミシモ、と言うなど。

魔のない世界
ベートーヴェンの第九、第四楽章、大晦日に合唱される名曲で語られるシラーの詩。
1989年、ベルリンの壁が崩壊した時も、その後のオリンピックで東西ドイツの選手が金メダルを取った時も、1986年の東京サミットでEC代表が空港のタラップから降りてくる時にも、この合唱部分が演奏された、その背景。

ツァウベル(魔力)の行方
見田氏は、近代化することと、聖域が葬られることと、同時に進む両義性に対して、
「獲得するものの巨大と、喪失するものの巨大の、双方を見晴るかす空間へ思考を挑発してやまない」
と、章をしめます。

上記、たった新書の1/4程度の箇所で、さらっと読めます。
興味が広がるエピソード多いはずです。楽しめる人もいれば、このままではいかん、と思う人もいるかもしれませんが、オススメです。


社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

アブラハム・パウロ・イエス・危口

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(4.15, updated)

2016年度、自分が最もインスパイアされた記事は、「法に背く罪と、法に委ねる罪がある」といった内容の記事でした。

この内容は、『やっぱりふしぎなキリスト教』に織り込まれたキリスト教の研究者、大貫隆氏の話の中で触れられたものです。
ちなみに大貫氏の語るエピソードの出典は、遡ること事2000年、ユダヤ教から派生したばかりの初期のキリスト教を布教したパウロの視点です。

ユダヤ教の熱心な律法学者だったパウロですが、面白いです。

ところで、持論で恐縮ですけど、自分はこんなことをよく思います。
「思い悩んで出した結論が正しかったときは、それを初めから正しいと知って出した結論よりも価値がある」と。
この考え、べつに特別な視点でもなく、大勢の平均的な感覚かもしれません。

例えば、世の中にある大切な事が、どれも制度化されたら、それは楽かもしれないが、きっとつまらない、と大勢の人が思うかもしれません。

親孝行は大事だからといって義務化したり、挨拶をしない人や投票に行かない人に例えば、懲罰を課そう、とする方針も同様に批判されます。

良いと思われることを予め定める社会より、人の自由や、考える力から生まれる意見のほうが価値があると思う人が多いから、だと思います。自由権愚行権の関係にも顕著です。

ところで、この話を元にすると、物事をわかりやすくする仕組み(規則etc.)は、できるだけ少なくした方が善い。その方が、人を育てるんじゃね?
と言う主張も生まれそうですが、実際はどうでしょうか?

その視点に立つと、例えばビジネスで、商品の価値は解りやすいほど売れるかもしれない、けれどきっとつまらない。とか。
娯楽は、アッと驚く刺激的なものの方が解りやすいかもしれないけど飽きるだろう。など。
そんな感想も多くなりそうですが、どうでしょうか?

...法律も決まりごとも、減っていくというよりはむしろ増えているような気がします。経験や、愛情や、人を思いやる力があれば、決してやらないはずのことを僕らは結果してしまうから、かもしれないです。

短い時間で、インパクトを与える表現も増え続けているような気がなんとなくします。いずれ飽きる事まで考えて、僕らは娯楽や消費活動を楽しんだりできないから、だと思います。

どうやら現実はそんな身体感覚が、法律に対しても、娯楽に対しても、文化に対しても、その基盤となる分かりやすさのテイストを要請していると、言えそうです。

ちなみに自分は現代心理学の学士(大卒)の立場なのですけど、ひとまず、この最小単位の身体感覚迎合主義のようなものを、面白がってます。これをひとまずマイクロポピュリズムと言っておこうと思います。

そんな現実に直面しているさなか。
大貫隆さんの指摘は辛辣でした。

さっそく、パウロの話ですが、彼はこんなことを言います。

掟が登場した時、罪が生き返って、私は死にました。
そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることがわかりました。罪は、掟によって機会を得、私を欺き、そして、掟によって私を殺してしまったのです。
ローマの信徒への手紙7章9節~11節

辛辣すぎて面白いです。

掟によって彼は、死んだそうです。
ルールそのものは、善と悪の区別を具体化するので、その罪の量を定量的に計測できるようにします。
おかげで生活は円滑になります。ただ、この”秤”を人が持つことで、同時に、パウロは根源的な罪が生まれると考えました。

大貫氏の言葉を通すと、「信仰的競争心を生むエゴイズム」を助長する、そうです。ユダヤ教徒の慣例を背景に語ります。

「掟」とは、モーセ律法に含まれる、ほとんど無数の個々の条項が信仰的真面目さの尺度とされているあり方のことである。それは容易に人間を信仰的真面目さの競争に誘うことによって、人間のエゴイズム、つまりパウロが単数形でいう根源的な「罪」を誘発する力となる。
『受難の意味』P40 東京大学出版会

パウロはこの罪に侵食されることを人の生死と結びつけました。生きていても殺されているという、発想になってます。やばいです。

そしてパウロは、キリストが十字架に掛かって死んだ事例を、反対に、身体が死んでも生きる状態の象徴として位置付けて、例の根源的な罪から解放される、キリスト教の贖罪信仰をローマを始め、地中海沿岸へと布教したのだそうです。

ところで、価値の客観的な尺度を元にした競争社会は、ポピュリズム、効率化、データ志向の現代社会の風潮と重なります。

あらかじめ良いと知覚できるものを、人が無批判に追いかけることのリスクは、エゴが強くなって、回り回って人に余裕がなくなる。そんなとこでしょうか。何れにしてもパウロの言う死ですね。

この根本的な罪から抜け出す方法は、パウロは信仰だといいます。
自分には正直よくわかりませんが、漠然とですけど、大貫さんのおかげで、キリスト教誕生の背景が少しわかった気がしました。

よく分かる論旨と、わからない論旨が混ざった、とても自分の好きなジャンルの話でした。


ちなみに、哲学や芸術の分野はすでに、この手の「善と美の対立」の話や「善いこと」に集中する「権力構造」への批判を、政策や作風の中で取り込もうと創意工夫をしてます。

哲学の分野で言えば、キルケゴールの反復の哲学もそうですし、絶えず血の通った選択を日常生活に求めた、ニーチェ永劫回帰の哲学も、物事に血を通わせるアイディアに富んでいて面白いです。

芸術の分野で言えば、娯楽に潜む権力構造を、舞台と観客の配置に置き換えて考察した、例えば、劇団、悪魔のしるしの故・危口統之さんが腐心していたことにも顕著で、面白いです。危口さんのインタビュー記事が、下に紹介した『えんぶ』などでも紹介されていますが、その他、ゲンロンカフェで鼎談される生前のコメントなども面白いです。
先日、41歳と若くして他界されましたが、彼に対して、今も好奇心が膨らみます。


受難の意味―アブラハム・イエス・パウロ

受難の意味―アブラハム・イエス・パウロ

やっぱりふしぎなキリスト教 (大澤真幸THINKING O)

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えんぶ 2016年 12 月号 [雑誌]

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