イノウエさん 好奇心 blog

井上慶太郎の学術系スナップショット。月1予定。

なんて面白いんだNHKで紹介された今縫えるさん

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(2017,1,17updated)

NHKの100分de名著で、名著57の回は『永遠平和のために』でした。著書はイマヌエル・カントさんです。

名著57 永遠平和のために:100分 de 名著

【指南役】萱野稔人津田塾大学教授)

聞き役に徹する伊集院光さんが、いつも敷居の低い目線に言い換えてくれます。

ところで、4回に分けて名著を紹介するこの番組、今回は、今縫えるカントさんです。
ちなみに、自分の働かせて頂いている図書館では、一部の嘱託員の間でなんと「今日のNHKカントだよ〜」の触れ込みがあったほど、期待する方もおりました。今回はこの4つに分かれた構成でした。

1回目「戦争の原因は排除できるか」
2回目「世界国家」か「平和連合」か
3回目「人間の悪が平和の条件である」
4回目「カントが目指したもの」

特に、最初の回では、誤解されやすいカントさんの言いたかったことを、分かりやすく紹介します。
例えば、「戦争の原因」である軍隊。について、カントは、常備軍を廃止せよ。と命じます。

そこで、
「軍を廃止なんて理想論は現実で通用しない。カントは理想主義すぎて現実を見ていない」
と、誤解されるといいます。

しかし実は。
カントは常備軍という名の傭兵(報酬を目当てに雇われる兵)を禁止しただけで、祖国のために武器を持つ志願兵は否定しなかった。という展開で、ほんとうは、カントって現実主義なのだよ。と指南役の先生が案内してくれます。わかりやすい。

カントの誤解を解く、といえば、有名な誤解の一つに、このようなエピソードもあります。

ある日、友人があなたの家を訪ねたとします。
聞けば、殺人犯から逃げてきた、とのことで家に招き入れます。
しばらくすると犯人がやってきて、「誰かこの家に逃げ込んでこなかったか?」と、あなたに尋ねます。
この時、嘘をついても良いか?

という質問に、カントは嘘をつくのは許されないと、考えます。
この考えは、あまりに堅苦しい印象がもたれると、指南役の方も指摘します。

そもそもそんな状況に立ち合わない、と言われるとそれまでですが、もし自分がこの状況に置かれたら、友人を助けるために「ここには居ない」と答えると思います。

カントは、なぜこの嘘を許さないのか。

それはつまり、こういうことです。
場合によって嘘をついても良い、いわゆる必要悪の嘘を認めると、例えば、より多くの命に関わる嘘も、必要であれば、許されることになります。
重大な国家間の取り決めの場においても、その場しのぎの嘘が許されてしまい、条約の反故や、隠蔽工作、人命に関わる様々な口実に援用される。とカントは考えます。

もともと、個人と国家を、同一の原理に遡って展開するカントの哲学は、大きな話のように聞こえる永遠平和についての話も、だんだんと何を言おうとしているのかが、わかってきます。

ところで、カントの哲学の骨子を論じた有名な著書に三大批判書があります。この三つの著書も『永遠平和のために』の理解を助けるので、番組で取り上げられる日が楽しみです。

とはいえ著書は難解で、本を手に取る時間もない方のために、イノウエの理解した範囲でのカント哲学の面白さを、できるだけ分かりやすい表現で解説を試みたいと思います。間違いのご指摘もあるかと思いますが、ぜひ、ご批判ください。

わかりにくすぎて、触れることもできなかったカントを、少しでも面白いと思えるような試みです。
篠田さん翻訳の原著では使わない表現もありますが、ご了承ください。
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今縫える・カント

1724年生まれのカントは、18世紀まで社会に浸透していた損得で物事を判断する一般的な習慣、いわゆる経験主義に、苦言を呈します。
(経験を重宝することは良いことであっても、過度になると、快適さや金銭など、即物性の高い価値ばかりが信奉され、主観の美意識は損なわれやすい、と考えられた)

近代以前、経験主義を抑制していたのはカトリックを中心とする宗教やその他の、神秘主義でした。1648年に、ウェストファリア条約で新教(プロテスタント)と旧教の対立する30年戦争が終結すると、公式に新教が認められ、新教の流れをくむイギリス経験主義がますます勢力を強めていきました。

イギリスではジェームスワットの蒸気機関が発明され、実利的な哲学が推し進められる中、ヨーロッパ大陸では理念が常に至高の価値だとする合理主義の立場が優勢で、フランス革命も間もなく始まろうとする激動の時代に、カントは現れます。

カントはイギリスの重視する経験主義にまさり、さらに宗教を語らずしてそれまで、人々が神と言っていた神秘性を、人間性や主観の中に見いだします。そして、その主観=主体性の美意識を語り尽くしたんです。

では、どうやって?
一つ目は『純粋理性批判』を通して、です。

人は知覚したり経験したりできない対象にまで、理性を広げていく結果、検証できないものまで信じこんでしまったり、無用な対立を生んだり、時には、どこそこの啓示が降りてきた、や、なんとなくそう思うという根拠で人を説得しようとする場面に、出くわします。
普通の人から見ると困ってしまいます。

憶測ではなく客観事実だけを、話せ、と僕らはよく考えたりします。

ですけど、結論から言うと、カントは理性が推測したり何かを探求していく性質を重宝します。それは、危険なものではなく、方向を間違わなければ、誤解を避けることができるばかりか、自分らしさを引き出す実践的なものだとカントは考えます。

ということで、まずカントはこの著書で、理性と感性の違いを大きく分けて、さらに、理性の働きを解明していきます。その中で、人間の知性は、いわゆる、悟性、理性、判断力の三つ構造を持つことを暴きます。

悟性ってなんだか聞きなれないですよね。
現代風な理解を書くと。
・悟性は、物事を知覚して判断する、現在でいうところの分析力に近いです。
・ちなみに理性は、知覚できないものの因果関係を探究する論理性に近いです。
・判断力は、そのどちらの間にも働く美意識を伴う主体性、です。

この三つの知性が、人間性の中に混ざり合い、ある時には混乱を生じさせたり、経験主義に陥らせたりしますが、ある時には、実践的な自分らしさに気がつかせ、自由な人間を育てていく、という感じで、知覚や認識の構造をひも解いていきます。

ちなみに、悟性を中心にした価値観、現代風に言えば、分析力を中心にした価値観は、損得や快適さを偏重して物事を判断するので、これを従来の経験主義になぞらえ、自然の状態と、解釈します。

それから理性に偏重した価値観は、神の有無に固執したり、経験主義を否定するような展開を生んだりして、対立を生みます。これを大陸合理論(当時、イギリスの経験論に対抗した)になぞらえました。

また、判断力、いわゆる生まれ持った主体性は、芸術と公共哲学、自分らしさやユーモアに関わるものとしてカントは重宝しました。

という流れで、1冊目の批判書では、人の知覚の構造を通して人間性が何かを解明していきます。


二つ目の『実践理性批判』では、
人は悟性を中心にした状態、いわゆる「自然の状態」から理性を中心にした状態「自由の状態」へ移り変わることができると言います。それは単に利害関係を分析する状態から、自分らしさ、いわゆるカントでいうところの判断力を働かせた状態への移行を意味していて、やがて公共性に関わるポリシーを自分に課すことになる、という旨を伝えます。
その自由の状態を発見する理性を「実践理性」とカントは呼びます。

では、どうやって「実践理性」をもつことができるのか?
このことについてカントは、美意識に関与することだと考えます。その方法は、知への愛情を抱くことを匂わせる内容を綴りますが、それが美意識を育む方法だとしたら、それよりも、そこに美意識があるかどうかを経験的に確かめる方法を、より具体的に書きます。

例えば、ある行動をするとき、それが利潤を目的にした場合には美意識に関わっていない状況だという旨を、伝えます。
自分らしさ=主観・主体性を含んでいる状態は、美意識に関わる状態だと言います。この主体的な状況が、どんな状況にも通用する場合、自分にはブレない規律が生まれているはずです。これが公共に関わるポリシー=実践理性だと考えます。

・損得で判断していないこと。
・どんな状況にも通用するブレない振る舞いをしていること。

この2つを確認できれば、美意識に関与しているとカントは考えます。

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寄り道をして補足すると、有名な言葉にこのようなものがあります。

汝の意思の格律が常に普遍的法則に妥当しうるように行為せよ
実践理性批判』(1788)

"意思の格律"というのは自発的にもつ自分への規律です。普遍的法則というのは、何か一つの決まった振る舞いを指すのでなく、利益や快適さだけを重宝しない振る舞いを指している、とのことです。

おそらく、恋愛でいうところの、何か新しい物を相手に買い与える愛情ではなく、なんとなく一緒にいて落ち着く、という場合に働く愛情が、普遍的法則に合致する意思のように思います。
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ということでこの著書では、人間性、美意識に関わる理性、カントは超感性的基体とも名付けますが、これらが、実践理性であり、ユーモア、自由に関わると言います。


三つ目の『判断力批判』では、
この超〜の性質が、判断力に関わることを語ります。
結論は、この性質が「芸術」と「公共哲学」に関わります。

そのため、著書は二つの分野に分けられます。カントの言うところの「美学的判断」と「目的論的判断」の分野です。前者は視聴覚表現に関わる美学について論じるので、芸術の分野を扱い、
後者は、概念や理念を扱う判断について論じるので、公共哲学の分野に関わります。

この二つは似て非なるものであるけれど根本はどちらも、知覚や経験の価値観では得られない、超〜に関わる。という内容です。


一冊目で、知性の構造を解き明かして、人間の認識能力がどのような仕組みかという点に気づきを促します。
二冊目で、どういう風にして、その知性は実践されるのかというプロセスを伝えて、わかりやすくします。
三冊目で、芸術と公共性に関わる超〜の主体性が、その実態だと伝えます。


これらの一連の著作を通して、カントの哲学の基本は、自然状態から、自由状態への移行にあると知っておくと、難しい部分につまづいても、先へ進めると思います。

その他の著書を読むと、カントは、ルソーに人間そのものへの尊敬を学んだといいます。ルソーは子供の状態(自然状態)を重宝するので、簡単に言うと、子供から大人へ成長の話だと思うと、カントの哲学は少し理解しやすくなります。
どちらが悪いとか良いとかではなく、
自然の状態(子ども?)は、周囲の損得勘定に、いつまでも振り回されるが、自由の状態(大人?)は、損得に振り回されず、のびのびできて、結果、振り返れば得だってしてしまうのだ。とまとめます。
これが超絶大雑把な見解ですけどカントの理解の基本的なことではないかと、思います。


この「自然から自由の状態」に関わる話が、カントの哲学の基礎にあって、これをそのまま、国家の単位に当てはめたのが『永遠平和のために』だと理解すると、分かりやすいです。

自然の状態、概して自国の短期的な利益を中心に考えると、徒党を組んだり同盟を作ったり。採算の見合う傭兵を雇って常備軍を作る、という発想につながります。

自由の状態、に基づいて考えると、自国を戒めることで世界に共通するルールを発見できる。それが長期的に自国の利益につながって、つまり、経験主義の側からも検証ができる。

というわけで、世界平和の話に連結する。

こう解釈ができるんです。
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カントの分析は、普段の生活にも必ず関わるものに対して向けられているので、もし、自分の考えや知識に穴が見つかったとしても、問題ないです。カントさんを思い出せば、すぐにその穴を、この場で、今、縫えるんですね。
というとで今回は、イマヌエル・カントさんでした。
長文失礼しました。

永遠平和のために

永遠平和のために